「共感」と「理解」について

未分類

カウンセリングについての話。
「共感」と「理解」について
共感ということに非常に深く悩んでいた時期があり、共感というプロセスの中にある理解を大事にしようと思うようになったことで、随分救われたような気持ちになりました。
何を共感とするかも含め、共感は難しいんです。
共感できたかどうかを確認する術がない。
共感した、された、とお互いに思えることには、その二人の間で価値はあると思うのですが、お互いにそう思えたことと、果たしてそこに本当に共感があったかどうかということとはまた別のもので。
だからそこに「共感があったかもしれない」「共感があればいいのに」となんとなく思えるところを目指すような、そんな不確かさをよしとしつつ、そこに向けて邁進するくらいの感じがちょうどいいと諦めるしか無かったわけです。
もちろん共感できないよりはマシなのですが、そこを追求することが相手の役にたつとは限らないわけですし。
でもここに「少しでも共感するために理解していこう」と、「理解していく」という行為については、コツコツと掘り進めていくことができるわけです。
もちろん本当の理解には辿り着くわけではないのですが、理解しようと話を聞き、仮説を立て、自分の仮説としての理解を伝え、確認し、そこからまた新たな発話が起こるというプロセスを辿ることで、少しづつ彫り進めていくことができる。
で、その理解は共有され、多くの場合はその人の今の固くなった気持ちを解きほぐしたり、新たなものの見方や選択の可能性を増やすのに大いに役立つ場合が多いので、この「理解」が進む対話の仕方を自分なりに確立し、指導の時にもお伝えしていくようにしてきているわけです。
でもこの理解を進めていくことと共感ってのは、どっかかけ離れている、でもこの理解という補助線をいく通りにも張って、それをたどって右に左にああでもないでもない、とやっているうちに、あるときパッと話していることや、悩みのど真ん中みたいなものが二人の目の前に現れたり、まあこんなのどっちでもいいですよねえへへ、みたいな「イマココ」がパッと現れたり、じわじわ構成されたりするわけです。
で、それって共感的理解と近いものかもと思ったりしつつ、同時に「いやいや調子に乗ってはいかん鶴亀鶴亀」とか思ったりもするわけです。
(もちろん共感も理解もされたくないという人もいるわけですから、この人になら共感しようとされてもいいかも?理解しようとされても嫌じゃないかも?というところにまで関係が辿り着くことも大事なのです。でもそのためには共感と理解が必要だったりするんですよね。)

サムネイル画像はUnsplashClay Banksが撮影した写真

コメント