【公認心理師資格試験講座】国語の問題「登場人物の気持ちを答えよ」から思い出すこと
「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ
まずはこちらの記事をご覧ください。
以下本文より
解釈の「幅」「妥当な範囲」を決めるのは、その解釈共同体が共有してきたコードの蓄積です。「私たちの共同体では、こういう場合はこのように解釈するのが普通だ」という情報が蓄積されて、「普通」が形成されます。僕たちに「普通」がわかるのは、様々な経験を通じて、そのコードを知識として持っているからです。
このコードは長い時間をかけて、例えば古典の蓄積を通じても形成されます。例えば、川本皓嗣氏が『日本詩歌の伝統』で論じるように、「秋の夕暮れ」に物悲しさを感じる感情も、古典文学の伝統の上に成り立ってきました。この感情は、英語の文学的伝統では必ずしも自明ではありません。
僕たちの「普通」な感情の表出は、必ずしも普遍的なものばかりでなく、自分が所属する解釈共同体の文化の長年の蓄積を受け、そのコードを学んだ結果として形成されてきたものなのです。ここに古典を学ぶ意義を見出す方もいるでしょうね。
国語という教科についての僕の印象は・・・
漢字ー苦手
授業ー眠い
教科書ー激面白い
テストー納得いかない
でした。
でも高校になって、模試がマークシートに変わった瞬間に高得点科目に。
その時に気づいたんですよね。
あ、国語のテストって、出題者の考える正解を当てるクイズで、それはつまり国語の専門家が「この答えはこれ以外ありえないよね」と納得できるような答えにならねばならず、それって文中に正解を規定するようなキーワードや理由が散りばめられてるはずだよね、ってことに。
(きっとこういうこともどこかで教えられていただろうに、聞いていなかったのかその時はピンときていなかったのか・・・)
自由記述だと、「俺はこう思う!」って本気で感じたことを書いていて、やっぱり「自分は!」っていう自己表現の場みたいにしちゃってたから、そりゃ点数取れないですよね。
マークシートになった瞬間に、自己表現する余地はほぼないわけだから、(マークシートの塗りつぶすとこでドット絵を描くくらいしか思いつかぬ、、、、)もう正解を探すしかなくなり、そーするとやっぱりこれが◯っていう根拠、というよりこの選択肢は✖️って根拠がどんどん出てくるんですよね。
あ、そういうゲームだったか!と気づくわけです。
ゲームといえば
余談ですが・・・
子どもの頃、ゲームやってても、「あの敵にはこういう感じで倒したい」とか、よくやってたなと。
RPGでもボス戦で「止めはこの敵に恨みを持っているこいつに刺させてあげよう」とか勝手にストーリーを汲んでプレーしたり。
「ストリートファイター2」で投げ技と大パンチしか使わないとか、下手くそで弱いくせに勝ち方やプレーの仕方にこだわる、というか負けた時の言い訳!?みたいな感じで。
そういえばドラクエ3も最初、発売してすぐ始めた時、遊び人をパーティに入れたんですよ。
なんか戦士のピンクの鎧が嫌で、勇者、僧侶、魔法使い、遊び人、てパーティでやってて、まー当たり前ですが遊び人はぜんぜん戦闘の役に立ってくれなくて、戦闘中に一人で転んでたり、一発芸をしたり、遊んでたりして(遊び人だから)でも、どうしてもバラモスが倒せなくって、泣く泣く遊び人の代わりに戦士を入れて、レベルを上げたらカンカンに倒せて、おいー!って思いました。(でも後で遊び人が賢者というとても強い上位の職業に転職できると知って、すごいゲームだなと思いました)
こういうのを中二病と呼ぶのでしょうか?まあ実際に小中学生の頃の話ですが。
今考えてみれば、ゲームをやりながらも、やっていることは単純作業な部分もあるので、その間に勝手にストーリーを作って、想像を膨らましながら遊んでいたんですよねえ。
いち早くクリアーするとか、そのために効率よく経験値を積むとかは興味があまり無くて、アイテム探しばかりずーっとやっていたり、お気に入りのユニットをひたすら育てたりとか。
つまりゲームをやりつつも、その世界を使って余白で楽しんでいたんだなと思います。
臨床心理士の資格試験
臨床心理士の試験も同じ感じだったんじゃないかと思います。
マークシートで、知識問題もありますが、事例を読んで正しい対応法を選ぶ問題が多いわけですから、同じように選択肢となる文章には正誤を決めるキーワードが必ず隠されているんです。
一つ違うのが、国語の問題は日本語として言葉の意味や文脈の捉え方を知っているという前提がありましたが、臨床心理士の資格試験は、心理臨床家としての言葉の意味や物事の捉え方をしっているという前提が必要なところです。
だからつまり資格試験勉強というのは、問題を解く前提になる心理臨床の知識をインプットしておくこと、もう一つは、心理臨床の専門家としての当たり前の状況の判断の仕方、ここは少なくともこうしますよね、という公式なパターンをたくさん持っているということが必要になります。
つまり「解釈の「幅」「妥当な範囲」を決めるのは、その解釈共同体が共有してきたコードの蓄積です」ってやつですね。
そうすると過去問の事例問題を解いていて間違って、解説を読むとやはりそれなりの理由が書いてあり、「おお!なるほど!ここは俺やったらこうすると思うけど、この問題を作った先生はこれが正しいし大事なことと思ってるのね!?」となるわけです。
勉強し始めは「え~!なんで~!?」と思っていたような問題が「ハイハイ、そこはやっぱりそ~来ますよね~」となると、自分で問題の正誤の解説ができるようになり、そうなるとまあ楽勝で合格ラインであると。
そうやって試験勉強として問題を解いているうちに、「あー、臨床心理士ってこういうときにこういう判断をするんだねえ」という判断基準が分かってきます。
よくできていますよね。
試験は資格のアイデンティティーを強める踏み絵?
その後は資格勉強会の委員になっていたので、毎年受験生と一緒に問題を解いたり考えたり、解説したりしていたのですが、これは一種の「踏み絵」であるよなあと。
試験勉強の中で「こういう時にこういう判断をしない人は臨床心理士として認めませんよ」とやることで、臨床心理士という集団してのアイデンティティーを強化していく手段にもなっているわけですよね。
それはつまり「魂を剣にささげよ」じゃあないですけど、臨床心理士というものに、自分の価値判断やアイデンティティーを置けますか?って言うことなんだと思います。
まーでも子供のころとは違い、「実際にはこうしないけど、試験だし臨床心理士的にはこっちが〇なんでしょ」みたいなこともできるわけで、最低限臨床心理士的にはどっちが正解かわかっているだけでいいのかもしれません。
なので、勉強しながらアイデンティティーをどこに置くのかってことを考えなきゃならんわけで、資格試験勉強会をする中で、語弊があるかもしれないですが「いい心理士」になってもらいたいわけですから、アイデンティティーの話をしたり、そういうところを大事にするわけで、最初の内はそういう話がスッと入って活発に議論と学びがあったのですが。
ある年を境に、受験生が大学院新卒の子だけになっちゃったんですよね。
そしてたら急に話が通じなくなるというか、とにかく受かることに必死で「とにかく一点でも点数が欲しい」みたいな感じで、そこにはコミットする気が全然起こらなくって、その勉強会はその年でやめちゃったんですが。
もともと、受験する人のための情報や、勉強の資源が県内に無いというところで勉強会がスタートしたのですが、その頃にはみひろの勉強部屋等インターネット上にもたくさんの受験情報が溢れ、受験用の参考書もいいものが手に入りやすくなったこともあり、自分が忙しくなったのも合わせてちょうどいいタイミングだったなと。
そして反省
でもね、今になって思えば「とにかく一点でも」って気持ちにもう少し寄り添って上げれたらよかったなあとも思うんです。
そもそも「せっかく受験するんだから、その中でいっぱい寄り道していいもの得ようぜ!」みたいな考え方をする人なんてあんまりいなくて。
貴重な時間を使ってここにきているんだから「一点でもほしい」って思うのは当然だし、「いやいや、根底が分かればそもそも楽勝なんだよ」っていうのがピンと来なくても当然なんだから、そういう意味ではいい引き際だったような気がします。
それこそ僕の中の「遊び人」をパーティーに入れるようなところを面白がって一緒に受け入れて付き合ってやってくれるのは、やっぱりすでに臨床をやっている人たちだからこそであって、教えているようで遊んでくれてたんだなあと、ほっこりと思いだします。
え?公認心理師はどうかって??
ちょっと臨床心理士と毛色が違うみたいですね。
まだ、実は、、、過去問を、、、やっていません、、、汗
ZOOMって会議ソフトを使って勉強会をオンラインでやれたらとか思っているんですが、興味のある方は連絡を問い合わせから頂けたら嬉しいです。
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